アスペルガー当事者が自らを研究する〜つながりの作法〜

なるほど、こう感じているのか・・・

今、私は、飛行機の中で、この本を読んでいます。

もし、この飛行機にアスペルガー症候群の方が乗り合わせていたとしたら・・・
どんなにつらいか・・・

想像していたら、とっても他人事とは思えない、ザワザワした気持ちになりました。

にわかに、
今まで気にならなった飛行機の爆音と振動が、ものすごく気になるものに変わってしまっていました。

アスペルガー当事者の感覚

飛行機の中の壁からの反響音・・・赤ちゃんの鳴き声、人のざわめき、etc. ・・・雲の上の密閉した空間の中で、様々な刺激に晒されて・・・

アスペルガーの方は、これらの刺激にどう対処しているのでしょう。

睡眠薬で眠ってしまう?・・・

私には、そんな非現実的な荒技ぐらいしか思いつきません。

もし、私がアスペルガーの子どもだったら、飛行機には絶対に乗らない!と、力の限り、主張するでしょう。

飛行機の搭乗口で、聞き分けのない子どもが泣き叫んでいる、母親が懸命になだめている・・・そんな光景を目にしたら、その裏には、アスペルガーにしかわからない別の事情があるのかもしれません。

アスペルガーの子どもは、我が身の危険を察知する生存本能のために、闘っているのかもしれません。


本書の中で、綾屋紗月さんは、自分の体験を、多くの言葉を駆使して、雄弁に語ってくれています。

自分のことを詳細に分析した描写は、手に取るようで私に迫ってきました。

読み進めていくと、彼女の異なる感覚を追体験できるようです。


きっと、自分に起こる様々なことを、分けて、整理して、分析して・・・彼女にとっては、そうしなくては、生き死にに関わる問題だったのでしょう。

彼女の精緻な分析力には、必要に迫られて培われた、切実さのようなものが滲み出ています。

綾屋さんいわく、

どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ。

多くの困難さの元にあるのは、情報を選択できない、あらゆる情報を同じように受け取ってしまうということなのですね。


では、まず、彼女によって整理されたの内側の体感を、追体験していきましょう。

身体の内側からの訴え

身体の内部では、各部分が一致することなくバラバラな訴えをしているといいます。

「お腹が凹むような気がする」「喉が痛い」「頭がぼーっとする」「無性にイライラする」「倒れそう」「胸が詰まって悲しい気分」

これらがバラバラにやってくる、しばらくバラバラなまま続いて、やっと気づく・・・「お腹が空いているのかもしれない」と。

そう言えば、「暑い」「クラクラする」「頭が痛い」という身体の感覚を持ったとしても、それが=「熱がある」という発想にならない、そんな自閉症の子どもの話はよく聞きます。

綾屋さんは、自分のこんな身体の感覚を「ほどける私」と言っています。

言い得て妙ですね。

言葉と体感がぴったりと一致して、繊維の撚れがハラハラと解けていく感じ・・・こんな感じなのか・・・

自分の境界線がなくなっていって・・・危うい感覚が、よく表現されている言葉です。

自分とそれ以外を分ける境界線をぐるりと引こうとしても、自分の体のあちこちに、まるで赤の他人であるかのような、よそよそしさ、思い通りにならなさ、一体感のなさを感じているため、線が引きにくい。
その結果、「私」という統一感を持った「存在の輪郭」と呼べるようなものまでも、すぐに見失ってしまいがちになる。(つながりの作法より)

自分が他人のように感じる、気持ちの問題じゃなく、肉体の感覚として感じてしまう・・・というわけなのですね。

これがもし日常的に続いたら・・・どうでしょう?

精神的な崩壊へ向かってしまうのも、頷けます。


そして、さらに、刺激は外側からも容赦なくやってきます。

外の世界からの刺激

身体の外側からも、同じようにバラバラの情報がやってきて、むやみやたらと受け取ってしまうというのです。

たとえば、誰かと居酒屋にいるとします。

すると、卓の向かいに座る人の声も、隣の座席のヒソヒソ話も、等しく聞こえ始め、5分ぐらい、2つの話を同時に理解できる、さしづめ、ミニ聖徳太子を味わうことができるのだそうです。

そのうち、店員さんの威勢の良い声や、溢れる笑い声、奇声、BGMが溶けて、音の霧のようになって・・・、今まで理解できていた向かいの人の声も細かな粒になって、空気中のたくさんの他の音の中に散ってしまう・・・感覚飽和して、聞き取れなくなる・・・

たくさんの音が彼女の中で、処理不能な飽和状態になって・・・臨界点を超えてしまうのですね。聞こえすぎて、聞こえてないも同然になるのです。

そして、さらに、この内側と外側の状況に加えて、自分のアウトプットである運動が重なったら・・・わー、一体どうなるでしょう。

(想像するだけで、私も辛い、胸が痛いです。)


そして、さらに、これに自分の体の運動が合わさって、自分の身体からの刺激が加わったら・・・どうなるんでしょう???

つながらない身体

自分が運動することによって、自分自身を窮地に追い込んでしまうなんて、こんな悲しいことはないです。

バスケットボールのドリブルが恐怖だったというのは、興味深い話です。

反復される自分の手の運動と、つらなって反復されるボールの動きと、ボールをつく床からの音と、壁からの反響音と、それらが時間差でもって繰り返される・・・

普通はこんなに分解して把握しないですよね。

バスケットボールをドリブルしているとき、身体がどうなっているか、思い出してください。

私たちの身体は、本当に便利に動いてくれて、右手がこうで、このときの足はこう動いて・・・なんて、いちいち、意識して動かしていないですよね。

一連の流れとして、身体の方で、勝手に動いてくれるのが普通です。

そして、

意識はすでにゴールリングにあって・・・、周りの音も気にならなければ、自分のボールをつく右手さえも気にならない、という統合した状況を作り出すこともできるでしょう。

しかし、綾屋さんの場合は違います。

反復継続されることによって、アウトプットである手の動きの感覚と、インプットである視覚と聴覚などの情報が、次々と幾重もの層となって、まるで合わせ鏡をのぞいたように、私の周りに無限の空間を作っていく

やがて、自分の身体が軽くなって宙に浮かんでいるような気分になるため「自分が世界に存在している」という感覚まで奪われていく


たかだかボールをドリブルしているだけのことなのに・・・自分の存在を感じられなくなることにまで発展するなんて・・・

そして、悪循環に陥っていくと言います。

普通の人が何気なくできていることができないという恐怖、できない自分に一体何が起きているのかという不安・・・

読んでいるだけで、クラクラします。
もう、私まで危うい状態です。めまいがしてきました。

そして「自分の声」となると、さらに厄介なことに陥ってしまうというのです。

自分の声が聞こえない

自分の声を録音して聞くと、「え~こんな声なんだ」驚くことがあります。

その声はよそよそしくて、自分の声とは思えません。

私たちは、自分の中に響く声と、自分の外側に響く声、この2種類を区別していないんです。

瞬間に放たれる声は同時に聞こえるので、1種類の同じものと解釈しています。

しかし、綾屋さんは、どうやら2つの声という感覚を持っているようです。

自分の声、すなわち情報としてアウトプットされる声は、すぐに空気中に溶けて消えてしまうと感じていた。

しかも、自分で話すと同時に、いつも耳の周りがわんわん、じんじんしていて、耳に空気のふたををされているような感覚が生じているので、耳にもどってきた自分の声をうまく把握できない。

これでは、うまくコミュニケーションできないのも、当然です。
話せなくなるのも、話をしようと思わなくなるのも・・・

アスペルガーと診断されて・・・

そんな綾屋さんが、アスペルガー症候群と診断されたのは、大人になってから、結婚して5年たってからのことです。

アスペルガー当事者の書いた本を偶然読んだことがキッカケでした。

そして、アスペルガーと診断されたことで、自分の生きにくさ・感覚に名前がついて、やっと証明されたと、ホッとしたと言います。

「自分の存在 」や 「周りで起きていること 」に意味づけができず 、その時その時で断片化した記憶となってしまっていた 「過去の私 」が 、一つの時間軸の上に並ぶようにして 「現在の私 」に統合されていく感じだ 。

電車を降りてからは 「そのひとつひとつの過去の私をすべて許していいんだ 」と感じた 。そしたら感動して少し泣きそうになった 。
(つながりの作法より)



自ずと、同じく診断された当事者のコミュニティに参加して、安全な基地ができた、自分の足場ができたと思えたと言います。

この仲間と出会い連帯する時期を、綾屋さんは、第二世代と名付けています。

第二世代というからには、第一世代もあって・・・
第一世代は、自分はマイノリティであるということを知らないまま、社会の隅っこにいて、自分が多数派の人とかけ離れていることに悩んでいた時期です。

多数派の感じ方や行動様式に合わせなくてはならないと、周りからの「同化的圧力」を感じ、自分の努力が足りないと自分自身を責めていた時期です。

診断されて、同じような仲間がいることがわかり、仲間と同じような感覚や苦労を共有することができて・・・

「もう普通のフリをしなくてもいいんだ」

普通が正しい、
という呪縛から、解放され、自らの存在感を取り戻すことができたでしょう。

さて、

実は、ここからが私としては面白いなぁと感じたのですが・・・

綾屋さんは、第二世代になって、よかった・・・めでたし、めでたしとは、終わらないのです。

今度は、コミュニティ内でも「お前は私たちと同じマイノリティなのか」という排除的な圧力を感じてしまったというのです。

つまりは、第一世代で感じていた同化的圧力を、やっと解放されたにもかかわらず、今度はコミュニティ内でも受ける羽目になったと。

コミュニティメンバーの中にも、それぞれに差異があるため、その人の学歴や収入、職業、結婚経験など、同じであるのに違うという点が強調され、違うことを嫌がる傾向が生じるというのも、わからなくはないでしょう。

同質であることの安心感が、脅かされるわけですからね。

この傾向は、綾屋さんが所属していたコミュニティだけの問題ではなく、どの集団でも、起きうることかもしれません。

実際、私も息子の学校の中では、障害児の母というコミュニティに所属しており、同じような感覚を覚えたことがあります。

このように、第二世代の問題を提示してもらって、私の気持ちを代弁してもらったような気がしました。

なるほど、そういうことかー、納得できました。

当事者研究の会に参加して

このように、綾屋さんは第二世代にとどまることができなくなりました。
ようやく見つけた居場所だと思ったのに、なんだか、ここも違うかもしれない・・・

この気持ちは、とてもよく分かります。

綾屋さんほど深刻ではないけれど、その場では「共感・同調」を装って・・・そのコミュニティの中では話題を合わせるという経験・・・

そんな経験は私にもあります。
あなたにも、誰にでも、あるのじゃないでしょうか。

・・・そこで、

綾屋さんは、次の段階、第三世代を提示しています。

同じでもなく違うでもなく、お互いの多様性を認めた上で、仲間としてつながり続ける道を模索する・・・

その模索の手がかりは、「当事者研究」にあるようで、大枠の意味は、その名の通り、

「当事者が主体となって、自分を自身で研究する」というものです。

どんな手法か、私自身経験していないので、よくわかっていませんが、何人かで丸くなってそれぞれの発表を行います。

そして、誰かが行った話に結論をつけることはなく、言
いっぱなしにしておく・・・ようです。

コミュニティ内で、それぞれの話はアーカイブされていくと言うイメージでしょうか。

(当事者研究については、もうちょっと調べて別に記事をもうけたいと思います。興味深いですよね。)

まとめ

アスベルガーと診断されて、いっしょくたにされているけれど、当事者の方は、本当にそれぞれ、千差万別の症状、特徴を持っていると言われています。

今回、アスペルガー当事者がどんな状況なのか知りたくて、この本を読みましたが、別な人が書いた本や、実際にアスペルガーの方に会ったとしたら、また、別な印象を持ったかもしれません。

それほど、綾屋さんのこの本は、全編、痛々しい・・・のです。

こんな感想は、失礼になるでしょうか・・・読後、いいえ、読んでいる最中から、常に、私自身の身体が痛いような、ヒリヒリした感覚が湧いてきてしまって・・・困ってしまいました。

「あなたは、生きるのがこんなに大変だったんだね。」

そして、アスペルガーの方の本当のところは分からないのですが・・・
でも・・・ある部分では、同じ気持ちになったことがある、他人事とは思えないと伝えたいと思います。

彼女の気持ちや感覚の一端は、私にも地続きで繋がっているような、わかるところもあると。

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