トランスジェンダーの人に会って無遠慮な視線の意味がわかった

憶測の域を出ませんが、トランスジェンダーなのかな?という人に会いました。

・・・といっても、積極的にそれについて話をしたのではありません。

その方は、車内販売の販売員の方で、私は車内でその人からコーヒーを買ったのでした。

全体的に大柄な女性の方とも捉えられる、でも、もしかしたら、生まれたときは男性で、自らの意思で女性になられたのではないか・・・そんなふうに思えて・・・

私の妄想だったのかもしれない・・・と思いつつ・・・

でも、仮に彼女がトランスジェンダーだとしたら・・・

私はその妄想を糧にして、いろいろ思いが巡るのを止められませんでした。

トランスジェンダーって、一体どんな感覚なんだろう?

たぶん、多くの人は、自分の性別を疑うなんてこと、そもそもしませんよね。

女性で生まれた人は、そのまま女性として生きていきます。

私もそうです。XX遺伝子になんの疑問も持たずに生きてきました。

自分の性別に違和感がある?・・・その感覚って、どんなものなんでしょうか?

自分の気持ちや考えが、自分の身体を作っている遺伝子とは、くい違っていた・・・、なにか違う、こころもとない感覚、日々の何気ない場面で、違うという思いが沸き上がってきてしまう・・・

自分ではどうすることもできないモヤモヤ、それは自分でもどうしようもなく、違うと思う自分を認めざるを得ない・・・そうしないと自分を否定することになるから・・・ぐるぐると葛藤が渦巻いているような気がします。

そして、子どもは親の望むようになりたいものですから、その差異を埋めるために、きっと、ものすごくガンバるんだろうな・・・、考えただけでも切なくなりますね。

彼ら、彼女たちは、違和感の元はなんなのだろうかと、自分に疑問を投げかけることで、否応がなく身体の感覚が研ぎ澄まされていくように思います。

とことん自分と向き合うことを余儀なくされ、反芻にも似た「省みる」というクセができて、それを方法にして、結果的に、穿った見方かもしれませんけれど、人類の永遠の命題に取り組まざるおえなくなっているんじゃないでしょうか。

丁寧に自分の感覚を客観視するのは、ある種、領域は違うかも知れないけれど、アスペルガーの当事者のやり方にも似ている気がします。

アスペルガー当事者の綾屋氏が、著作の中で、悩みながら詳細に自己分析していたことを、ふと思い出しました。

似ていないと思われるかも知れないけれど、両者どちらも、痛々しいまでに正直で・・・、そして、ものすごく頑張って、生きている人たちなんだろうなぁ、つくづく、そう思うんですよね。

トランスジェンダーの人をめぐる家族の物語

最近見たドキュメンタリーでは、女性で生まれて(今では)男性のトランスジェンダーの方が、パートナーとの間に子どもを授かるというものでした。

ゲイの友人から精子提供をしてもらって・・・、2人の父親(精子提供した実父とトランスジェンダーの養父)と母親(パートナー)という3人のユニットによる子育てを、試行錯誤している様子が描かれていました。

トランスジェンダーの彼は、ヒゲをたくわえ、見た目にも明らかに男性でした。学生時代の女子高生姿の写真は別人のようでした。

男性として、すっかり、家族にも社会的にも受け入れられ、女性のパートナーがいて・・・、こんなふうに、今の自分のように生きていられるなんて、まったく想像できなかったと言います。

思いもよらなかった幸せ、小さな子どもを抱いている自分・・・

これが50年前だったらどうでしょう・・・

だんだんと、社会的認知もすすんできて、LGBTの人がカミングアウトしたとしても、社会として受け入れられるだけの懐ができてきているようにも思います。

映像の中で、何より印象的だったのは、理解するのに時間がかかった、それぞれのご両親が、小さな命の誕生を心から喜んでいるということでした。

そこにあるのは、小さな命の圧倒的な存在感で、生まれた赤ちゃんは、生まれたというだけで、傷ついた家族を癒しているという・・・そのことは真実なんですよね。

それで、そこにあるのは、とっても個人的な問題ですが、同時に、社会的な問題としても共有されるようなもので、LGBTではない人たちにとっても、ある種、そこには、同じテーマを見るというか、人間としての共通テーマを見出すことができるんだと思うんです。

LGBTs、今ではSOGI?

LGBTは、レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)、トランスジェンダー(T)の頭文字をとって、セクシャル・マイノリティの人を表す言葉です。

当事者が、社会に向けて自分たちを語るときに、“連帯”を表す言葉として使われてきたという経緯があるそうですが、このごろでは、この4つだけでは収まりきらないということで、複数形の「s」をつけるようになってきているようです。

「LGBTs」複数形の「s」には、あらゆるセクシャル・マイノリティが含まれることを表しています。

そして、新たに、SOGI(ソジ)なる言葉も出てきて・・・、

SOは、Sexual Orientation(性的指向・好きになる相手の性)、GIはGender Identity(性自認・自分の性をどう認識するか)という意味のようですね。

「LGBT」や「LGBTs」という言葉は、セクシャル・マイノリティを一つのカテゴリとして捉えることになってしまうため、どうしても、その人が「特別」、「特異な存在」というふうに概念化してしまうことがありました。

これに対して「SOGI」という言葉を使うことで、すべての人に当てはまることになって、性的なあり方の問題を、みんな同じように「自分の問題」として捉えることができるという側面が生まれたんです。

さしずめ、障害者でも、自閉スペクトラム(S)、ダウン症(D)、アスペルガー(A)、聴覚障害・視覚障害(E)、肢体不自由(F)、精神障害(S)と、それぞれの障害によって様々に分類することができますが・・・、同じようにすべての人に当てはまるという考え方をするならば、どう表せるでしょうか?

社会やコミュニティは、障害者をどう捉えるか、人類は遺伝子をどう捉えるか、人間の脳をどう捉えるか、などということになるでしょうか?

LGBTs、障害者を見る容赦のない誰か目線

私が車内販売で出会った、トランスジェンダーの方は、男性に生まれて、でも自分は女性と思っている・・・彼女でした。

一見すると、女装されている男性の容姿をされていました。

ワゴンを押して車内販売にきた彼女を見て、居合わせた乗客は、ほぼ全員が異質に思ったのでしょう。まじまじと見たり、あらかさまに嘲笑するような視線を投げたり、笑いの混じったヒソヒソ話が始まったり・・・

彼女は、そんなことには、もう慣れっこになっているのかもしれない、でも、少しも傷つかないかといったら、それはどうなんでしょう・・・

このぶしつけな視線には、よく、うちの息子も晒されるんです。

異質なもの、異形なものを見分けるセンサーは本当によく働く。

ダウン症は、一目で障害者とわかる風貌だから、それで助かることもあるのですが、反面、同じ分だけ、異形ものを見分ける無意識の差別の視線に刺されることもよくあることなんです。

それがわかるから、息子以上に、トランスジェンダーの彼女は、開きなおるにしても、並大抵なことではないぐらいの、辛いことがたくさんあっただろうなぁと、つい、想像してしまうのでした。

生まれてきた意味を知る

障害者の息子も、トランスジェンダーの方と同様、今までの人類が築いていた固定概念や、多数派のカテゴリからは外れています。

障害者と同じように語るのを、LGBTsの方々は嫌がるかも知れませんが、社会の中では、同じように、「同質でないもの」と、カテゴライズされています。

社会的にはマイノリティというわけで・・・

でも、マイノリティには、マイノリティとしても役割があるんじゃないのかなと思うんですよね。

障害者やLGBTsの人たちが、多数派になってしまっては人類は成り立たないし、かといって、すべてが均一な多数派ばかりでも変化していかないというか・・・

障害者やLGBTsの人たちに対する、2020年のこの状況は、たとえば50年前とは比べようもないぐらいに、進歩していると思うんです。

その進歩を促したのは、他ならないマイノリティの人たちです。

まだまだ、婚姻に関する法律的な整備など、行き届かないところはあるにしても、地球規模で、社会的なマイノリティに対する理解の間口は広がっているといえます。

逆説的ですけど、社会的なマイノリティは、社会というものの中にいて、もっとも真価を発揮するというか、その存在が社会の成熟を、あるいは進化をすすめる役割を果たしているんじゃないかなと思うんです。

福島氏がインスパイアされた、ピーター・フランクルが提唱する「態度価値」という概念は、人類を一つの大きな有機体、生命とするならば、なんだか、ある種、遺伝子のような概念だとも思えて・・・。

そういう遺伝子の働きを、うちの息子も、福島氏も、トランスジェンダーで生まれた人たちも、みんな担っているんだと、ふと、そのことを思いついて、この先、50年経ったら、どんなふうになっているだろうか、2070年、もう私はいないはずですが、どこかで眺めることができたら、へー、こんなに変わったのかと、感慨深く思っているはずだと思います。

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