東田直樹くんがすごい!自閉症の感性にふれて

東田直樹くんを知っていますか?

発達障害の分野では、知る人ぞ知る人でしょうね。

特に自閉症の子供を持つ親にとっては、かけがえのない存在です。

私の友人も、なんども彼の言葉に励まされたと言います。

奇声をあげたり、不随意な動きをしたり、特定のことにこだわったり・・・
実の子供であっても、自閉症者の外側に現れているものは、なかなか理解できるものではありません。

どうして、こんな行動をするのか・・・
脳のどこかが損傷しているんじゃないか・・・
そんなに動いてケガしたらどうしよう・・・

我が子の不可解な毎日に、母は、気の休まる暇がないんです。

そんな母にとって、自閉症者の内面を語る東田くんの言葉は、希少民族の言葉を翻訳してくれているようなもの・・・・・


さあ、さっそく、東田くんの言葉の世界へ旅してみましょう。

東田直樹くんの本がベストセラーになった理由

私が東田直樹くんを知ったのは、PTA活動で、学校で講演会をしたいという話になったときのことです。

自閉症のお子さんをもつお母さんから、真っ先に東田直樹くんの名前が上がったんです。

東田くんが講演会をしてくれたら、こんなに嬉しいことはありません。
会いたい一心で、熱烈ラブコールしました。

残念ながら、講演会は叶いませんでしたが、私は彼の存在を知り、本を読みました。

そして、自閉症に対する見方が一変したのをよく覚えています。

彼が注目されたのは、13歳のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール、角川文庫)がキッカケです。

「我が子が何を考え、自分をどう思っているのか知りたい」

お母さんたちの切実な願いに、彼はひとつの回答をくれました。

彼らの表面上に現れていることを、その通りに受け止めてしまうには、あまりにも不可解で悲しくて・・・でも、子供の内面を想像することもできなくて・・・

日々、葛藤を抱えていた親たちにとって、自らの内面を平易な言葉で伝えてくれる東田直樹くんの存在は、この上なく頼もしいものだったのです。

私自身も、自閉症の子供の内面が、こんなにも豊かで、こんなにも深い思いに溢れていることを知って、とても驚きました。

そして、そんな親たちの思いは、日本だけのものではありませんでした。

彼の著作は、30カ国以上で翻訳され、世界的ベストセラーになりました。

現在、21冊にものぼる著作を刊行する彼は、売れっ子作家として活躍しています。

そんな彼のような活動ができるのも、ネット社会の今だからこそかもしれませんね。

オフィシャルサイト・ブログ・note、現在、表現できるメディアはたくさんあり、1日も欠かさずに毎日更新できる彼の良さが生かされています。

彼のような人が随分生きやすくなったのじゃないかなと思います。

自閉症がゆえの感性なのか

こんなふうに、今では熱烈なファンが多い東田くんですが、彼が自分の表現を獲得するまでの道は、決して容易なことではなかったと思います。

彼の言葉は苦労して手に入れたものです。

「話せない」、「書けない」、「コミュニケーションできない」

健常児だったら、毎日を暮らしているだけで習得できた言葉、それを表現することが彼には容易ではなかった・・・

それゆえでしょうか。

彼は、人一倍、言葉に対して、率直で丁寧です。

彼の言葉は、一直線に、スッと、心に届くのです。

出るまでは苦労したけど、彼の、素直な思いのままに投げた言葉は、私たちの心を震わせます。

私たちは、彼の言葉に揺さぶられます。

そんな、東田直樹くんの言葉・・・

彼にとっての言葉は、考える道具だと言います。

悲しみとほのかな希望と・・・

よく、「言葉がなかったら、思考できない」と言いますよね。

また、その逆に、「言葉にできない思い」という言い方もあります。

内側にポコっと発生したモヤモヤした思いや感情は、言葉にできて、やっと考えになるとも言えます。

障害者じゃなくても、自分の思いや考えをうまく伝えられない、という人は、たくさんいます。

かくゆう私もその一人です。

どの言葉を使ったら、一番ピッタリくるか、どうしたら一番うまく伝わるか、悩みに悩みます。

東田直樹くんの、彼自身の言葉で表現できるというのは、すごい能力ですよね。

彼は、自分の思いを言葉を使って思考して、さらにそれを「伝える言葉」に出来る人です。

そして、その彼の、何気ない言葉や、ちょっと違う視点が、受け手である私をハッさせたり、しばし、考えさせたりします。

「あー彼から見たらそうなのか・・・」とか。
「あーこの感覚は、そういえば・・・私の心の隅っこにもあるなぁ」とか。
「この感覚は羨ましいなー」とか。

穿った見方かもしれませんが、東田くんの文章は、とても普遍的な人生の命題を、古風に、真面目に考えている節があるんです。

とある日の東田くんは、まるで、人生を達観した宗教家のようでもあり・・・
またある日は、春が来てうれしがっている道端の草花のようでもあり・・・
また別の日は、生きる理由を悩む等身大の若者のようでもあり・・・

彼の詩には、人生に対する悲しさと儚さと、すこしの諦めと、それでも、精一杯の希望が、混ざりあっています。
ほのかなに光を帯びた、淡い色合いが混ざり合っている、そんな感じがします。

彼はどこにいる?

自閉症の彼らの意識は、どこにあるんだろうなぁと思うときがあります。

もしかしたら、肉体とは、すこしズレていて、身体からはみ出るぐらい意識を持っているのではないでしょうか?

そんなふうに思わせるのは、彼のこんなフレーズなんですよね。

ここにいるのは
僕じゃない
僕じゃない
僕じゃない

僕はさまよう
魂の置き場を求めて
大空を駆け巡る
そして
疲れて戻ってくる

僕という肉体に
魂だけ抱えて

(『ありがとうは僕の耳にこだまする』〜魂だけ抱えて〜より抜粋)

 

自分の中心を
自分で決めるなら
僕は
頭のてっぺんだと答えたい

空から見える地上の星
それが 僕らの姿だから
自分の中心は
空に向かって
いつも
大きく輝いていたい

(『ありがとうは僕の耳にこだまする』〜自分の中心〜より抜粋)

 

上の詩は、肉体と魂が別々に描かれているし、下の詩は、自分の姿を上から見ている視点になっています。

東田くんにぜひとも聞いてみたいところです。

自閉症者の神経回路がそうさせるのかもしれませんが、特有の感覚が、彼の詩の中に見受けられて、私は、その感覚に羨ましさすら感じます。

彼らの感性は、実は、すごく進化していて、すこぶる敏感で・・・逆に健常といわれる私たちは、うっかり大事なものを退化させてしまった・・・そんなふうにも思うんです。

そして、以下の詩は、どうでしょう。

空気をはじくような
うきうきした音符が
僕の体をすり抜ける
僕には 似合わない
明る過ぎるリズム

 

しずくが僕を包むとき、
僕は自然と涙する
その時僕は雨になる
そして雨は僕になる

(『ありがとうは僕の耳にこだまする』〜しずくが僕を包む時〜より抜粋)


これは、決して、比喩的な表現ではなく、本当に自然と一体化できる感覚を持っているからなんじゃないか・・・と思うんです。

自閉症の人は、光や砂や水や植物など、自然のものが好きというのは知られています。

東田くんも、光を見れば心が踊る、砂を触れば心が落ち着く、水を浴びれば生きていると実感すると言っています。

 

鳥の声が聞こえると、僕は鳴き声に浸ってしまいます。
声を聞くのではなく、まるで自分が鳥の仲間になったように、鳴き声そのものを聞き取ろうとするのです。
自分が人だということも忘れてしまいます。
鳴き声が持っているメッセージに、僕の全てが惹きつけられるのです。
そんなとき、心の中はとても幸せな気持ちになります。

水の中にいるときも、同じような安らぎを感じることがあります。
水中ではとてもゆったりして、手足をどう動かせばいいかなど考える必要もなく、漂うことができます。
言葉もいらないので、まるで、宇宙にいるかのような錯覚に陥ります。
そんなとき、僕は本当の自由を感じます。

ただあるがままの自分でいられるとき、僕も地球の生命の一部になったような気がします。

(『続・自閉症の僕が飛び跳ねる理由』より)



雨や風や光や花や木や・・・そんな自然の美しさの中に溶けてしまえたら・・・人間は、自分が地球の自然の一部であることを思い出して、ひとつになれた一体感で、それだけで幸せになれるんじゃないかな、そんな示唆を感じます。

まとめ

今回、東田くんの詩を改めて読み直してみて、思いました。

彼の言葉は、自閉症者が語るというカテゴリーに収まるものではないなと。

人間の本質や根源を、チラチラと垣間見るような思いがしました。

東田くんは、誠実に自分の人生を生きている27歳の青年で、彼の表現は、「自閉症」という特質を通した世界かもしれませんが、それがかえって面白いシナジーを生んでいるというか・・・

自閉症であるがゆえに培われた真摯な態度でもって、世界や自分を把握しているというか・・・

とにかく、私は彼のファンなんだな。

彼のことをどう把握しようか・・・考えていたんですが・・・

「違う色のフィルタをのっけた映画」
「微妙なアングル、大胆なトリミングの写真」

そんな世界を見せてくれる存在なんじゃないか・・・

人は自分の見えるもの、感じるものしか、体験できませんが、彼のフィルタを借りて、すこし違う色合いの風景が見られるかもしれません。

そうすることによって、私たちは・・・

既視感に襲われて、ちょっとめまいがするかもしれません。
三原色が微妙にズレたパラレルワールドに紛れ込んでしまうかもしれません。

しかし、「素(す)」の彼が感じ、そして綴ることは、どこにでもいる人間の本質的な悩みだったりします。

最後に、彼の言葉を借りましょう。

「自閉症とは何でしょう。」
その答えを一番知りたいのは僕たち自身です。
僕は、自閉症という障がいがどこから来て、どこへ向かおうとしているのかに、とても興味があります。

〜中略〜

きっと、現代の私たちに必要だから、自閉症という種類の人間を作り出したのでしょう。
必要というのは、それが良いことだという意味ではありません。
なぜ、これだけ増えているのかを、人類全体で考える時期に来ているのではないかということです。
僕は、自閉症であることを誇りに思えるような人生を歩みたいのです。

〜中略〜

一人ひとりが大切な人であるように、僕が自閉症として生まれて来たことには、きっと大きな意味があるに違いありません。
それが、何なのか見つけることが、これからの僕の人生の目標だと思っています。

(『ありがとうは僕の耳にこだまする』あとがきより抜粋)


それが、何なのか、きっと見つけてね。

この身を去るときに、「ああ、そうか」わかってほしいと願っています。

同じように私もわかりたいものです。

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