『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
何気ないタイトルですよ、本当に。
一見すると、目の見えない人のことを書いた、ごく普通の専門書のようです。
でも、実は、いきなり冒頭から裏切られます。
この本に書かれているのは、タイトルのテーマどおり、目の見えない人の世界のことが書かれているのですが・・・
でも、まずこのタイトル、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』って、
どこかおかしくないですか?
目が見えない人なのに、どう見ているのか、って問いかけているんですよ。
はなっから「目の見えない人でも見えている」という前提ですよね。
さらっと意味ありげなタイトルがつけられているんです。
この本では、伊藤亜紗さんの「好奇心」と「変身願望」が存分に発揮されています。
そして、私たちの常識や既成概念を小気味好く揺さぶる!面白い本です。
既成概念をひっくり返す
なぜ、目の見えない方々の本を書くに至ったか・・・
その理由がまず、面白かったのです。
『自分と異なる体を持った存在への想像力を啓発する』
なんだこれ?どういう意味でしょう?と思われると思いますが、これは、彼女の一貫した態度を端的に表した言葉です。
ライフワークといってもいいのでしょうね。
「やはり、これがやりたいのだ」と、彼女自身が気づいて、生物学から美学へ専攻を変えたと書かれています。
そして、一番やりたいことをやれる分野が美学だった、と。
序章では、そんなふうな、彼女の言うところの美学や身体論に関して書かれているのですが・・・
美学は日本人にはあまり馴染みのない学問???なんでしょうか???・・・
というか・・・
実は、本の中で、伊藤氏が説かれるフランスから流入した美学の定義が、イマイチ私には「腑に落ちなくて」・・・日本人の美学と合致しないように思えて・・・
伊藤氏のいう美学とは、「身体が納得すること」のように思ったのですが、どうも私には、「腑に落ちない」「カユいところに手が届かない」定義だったようです。
序章の段階で「自分の体にモヤモヤした部分」が残ったままになってしまいました。
(すみません、瑣末なことに気を取られてますね。伊藤氏の呪縛にハマったようで・・・笑)
釈然としないものを抱えつつも・・・
第1章から読み進んで行きました・・・(美学の話はこの段階で忘れましょう)
すると、そこには今までの常識をひっくり返される、見えない人側の見方が書かれていました。
エピソードはどれも斬新で、文字通り「目からウロコ」です。
『自分と異なる体を持った存在への想像力を啓発する』
この、伊藤氏の目的は充分に果たされています。
見えない人側からの観点は、見える人の、今までの概念をうま〜くめくって、物事の裏側を見せてくれるようで、それと同時に、無重力空間へ、ふあっと宇宙遊泳させてくれるような・・・
まるでVRゴーグルを装着したかのような観点をもたらしてくれました。
見えない人に「変身」するとまではいかなくでも、私の常識や既成概念を絶妙に変えてくれるものだったんです。
そして、それ以上に私が嬉しかったこと・・・
それは、この本が、障害者へエールを送ってくれている、と思えることです。
彼女にはそんな気はないのかもしれませんが、障害者の親としては、そこにうれしい意味を見出しました。
伊藤氏にとって目の見えない人は、行ってみたい外国の友達のような存在。
「そっちの見える世界はどうなっているの?」
彼女の好奇心いっぱいな姿に希望が見える気がしたんです。
見えない人は進化した人なんじゃない?
いくつものエピソードが、第1章から第5章までの、5つのテーマに分けられて散りばめられています。
「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」
どの章でも「へー、なるほど!」「あ、そっか〜」
終始ずっとこんな気分でした。
新しい意味が見つけられたり、今まで思っていたことを代弁してもらったり・・・
たとえば、こんなふうです。引用を読んでみてください。
事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。
リハビリと進化は似ているのです。
生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために使えるように作り替えました。
同じように事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。
前者は何億年、後者は数ヶ月や数年とかかる時間はだいぶ違いますが、どちらも同じ、器官から予想もしなかったような能力を取り出しているのです。
進化しうるものとして自分の体をまなざすこと。
これこそ当たり前の体を離れて、見えない人の体に「変身」することに他なりません。
失った器官は取り戻せませんが、それによって、他の器官が作り替えられ進化していくというのです。
「進化」という言葉を使ったのは、生物学者だった著者ならではの発想ですね。
でも、なるほど確かに中途失明者の人が語る実際の体験が、進化の片鱗を物語っていると言えます。
先天的に見えない人も、視覚以外の感覚が明らかに鋭敏です。
身近に見えない人がいるなら、それは周知の事実ですよね。
それらを考えると、「見えない」をカバーする進化のしくみが、身体には絶対的に備わっている、ということを裏付けているように思います。
で、ここからが伊藤氏の好奇心のなせる技だと思うのですが、残念だけど「分からない」で終わらせないのです。
「すごい能力ですね、見える私には分からないけれど・・・」と、そこで切ってしまわない、それって一体どういうこと?と想像力を発揮していく・・・
伊藤氏の言葉を借りれば、「変身」したいという欲求でしょうか。
「象になったら、蝶になったら、どう感じるんだろう」
人間以外の動物になりたい・・・
伊藤氏の中には、子供の頃の、未だ幼い生物学者の、恐るべき好奇心がそのままに息づいているような気がします。
結果、彼女は、両者にわかる言葉にして、そこに意味を見出し、「ほら、見て!」と提示してくれているのです。
見えない人は、そんな伊藤氏の存在に、きっと随分助けられたことでしょう。
障害者を特別視すること
では、見えない人は「特別な聴覚や触覚を持っているすごい人なの?」と疑問が湧いてきますよね。
実際、視覚障害者であり、国立民族学博物館准教授の広瀬浩二郎氏は、背表紙の感触だけで何の本か分かったりするそうです。
音の反響の具合で自分のいる場所が分かるという人もいます。
そんな能力のない晴眼者にとっては単純に「すごい!」と思ってしまいますよね。
でも、見えない人は、その言葉の裏に、「見えないのにすごいね」という言外の差別を感じていると伊藤氏は言います。
見えない人にとってはごく普通のことなんです。
見える人が使っていない方法、視覚以外の感覚を積極的に用いているだけの話なんです。
それを、いちいち特別視されて「すごいね」と言われたら・・・
どんな気持ちになるでしょうか?
たとえば、そこに親しい友達関係が成立するでしょうか?
・・・居心地が悪いですよね。
それに、見えない人は、それぞれに自分の方法で世界を把握しています。
みんながみんな同じ方法ではないのです。
それなのに、見えない人は「聴覚や触覚が優れている」という特別視が固定されてしまうのは、何よりも弊害になると言います。
見えない人の感覚の使い方は、人それぞれ多種多様なのです。
この指摘はもっともですよね。
うちの息子もダウン症ですが、「ダウン症」というカテゴリーで、みんな同じように捉えられています。
ダウン症の人も、中を覗けば、目の見えない人と同じように多種多様です。
ポッチャリ型の人もいれば、ヒョロッと細い人もいます。
あまり言葉が出ない子もいれば、健常者と変わらないぐらいおしゃべりな子もいます。
いろいろなのに、「同じ障害」を持っていれば、全部同じと一括りにされがちです。
でも、それは健常者から貼られたレッテルなんです。
当人は、特別視される違和感を感じています。
同じだけど違う、障害を持って困っているのは同じだけど、同じように困っているかというと、どうでしょう・・・実のところは、それぞれに困っているのです。
他人の目で物を見るという斬新
どのエピソードも興味深くて、あれもこれも紹介したい気持ちになるのですが、中でも、特に面白いと思ったエピソードを紹介します。
それは、他人の目を借りて美術鑑賞するというエピソードです。
著者は本書の中で、『ソーシャル・ビュー』と呼んでいます。
人と関わりながら見るから『ソーシャルなビュー』というわけですね。
見えない人の美術鑑賞というと、彫刻などを触って・・・という方法が思い浮かびますが、「他人の目で見る」という、こんな方法があったんですね。
なるほど!です。びっくりしました。
美術鑑賞というものは、こう一人で見て、内面に浮かぶものを鑑賞する・・・みたいなことだを思っていたのです。
もっとも個人的な体験だと思っていた常識が見事に取っ払われました。
自分で感じるだけではなく、他人の感性を借りてシェアできるものだったとは・・・
この、あっけらかんとオープンな手法・・・
私的には、こう、バーンと主体の垣根を取っ払われた気がしました。
美術鑑賞に伴う「高尚」「アカデミック」「小難しい」「わかる人にはわかる」みたいな既存イメージが取り払われた感じと言いましょうか。
さあ、では、実際に、その鑑賞の現場では、どんなことが起こっているのでしょうか?
ちょっと想像しただけでも、ものすごい面白いことになるような気がします。
まず始まりは、どんなアート作品が目の前にあるか、見えない人に説明する・・・のでしょうか。
その場にいて一緒に鑑賞している人が、いったん自分の中に引き入れたものを、また言葉にして表現するわけですが・・・
それは、ちょうど手に入る限られた情報から事件の全貌を推理する探偵のような仕事です。パーツがそろってくるとだんだん全体像がつかめてくるし、そうなると、足りないパーツや整合性の取れない箇所も見えてくる。すると、質問したくなります。全体がつかめ始めたころに見えない人が投げかける質問は、驚くほど的確です。
この作業、簡単なようで見える人にはなかなか難しい。
(中略)
見える人は、視覚が全体像を与えてくれることに慣れてしまっているので、それがないとお手上げになってしまうのでしょう。「推理しながら見る」ことに慣れていないのです。
それに対して、見えない人は常にこうした推理を行なっています。
つまり、美術鑑賞にかぎらず、ふだんから断片をつなぎあわせて全体を演繹する習慣がついているのです。
(中略)
見えるとどうしても見えたイメージに固執しがちですが、見えない人は、入ってきた情報に応じて、イメージを変幻自在にアップデートできる、つまりイメージに柔軟性がある、そんなふうに思えるのです。
いろんな人の言葉で、修正したり、解像度を上げていったり、行ったり来たり、直したり、壊したり、作品を頭の中に作り上げていきます。
その都度得られる情報は、人それぞれですから、間違いや矛盾も生じてくるでしょう。
これが、見える人だったら、あまりの情報の不確定さに憤慨してしまうかもしれませんね。
言葉の断片を蓄積するというやり方で、見えない人は、自分自身の作品を、自分の中に作っていく作業をするんですね。
見えない人にとって、美術を鑑賞するとは、自分で作品を作り直すことなのです。
この言葉を駆使しての行ったり来たり、やり取りが面白くないはずがないですね。
武器は言葉だけ
この美術鑑賞の場では、見えない人にとっても見える人にとっても、「言葉」の存在がにわかにクローズアップされてきます。
武器は言葉だけ、言葉のコミュニケーションだけが頼りです。
そして、あーでもない、こーでもないとやり取りを繰り返して、この見えない人と一緒に美術鑑賞するツアーは、最終的に、どこに落ち着くと思いますか?
鑑賞が目的ではないのは、もうお分かりですよね。
そうなんです。
見えない人は、ここでは、触媒になっていることに気づくと思います。
参加者は、見えない人をサポートする目的の美術鑑賞では、もはや無くなっていることに気付かされます。
むしろ、ざわざわししたのは、一緒に鑑賞していた晴眼者の方だったのではないでしょうか?
たとえば、ひとつの抽象的な絵をみんなで見ていたとして・・・
Aさんが「夕陽が海に沈んでいく絵です。日が暮れて仕事が終わって、1日が終わっていく落ち着いた感じがします。」と言ったとします。
一緒に見ていたみんなの頭の中のイメージには、海と夕陽が浮かんできます。
でも次にBさんがこう言ったとします。
Bさん「地平線に上っていく朝日の絵に見えます。これから一日頑張ろうという気になります。」
真逆の解釈です。
でも、一緒に見ていたみんなは、あ、そういう解釈もあるのかとなります。
海と夕陽だった絵は、今度は、地平線と朝日に見えてくるのです。
つまり、このイメージが変わるという体験が重要だと伊藤氏は指摘します。
実際に自分の中のイメージも、見えない人のように変わる、このことを体感することが、このツアーの重要なポイントなんです。
見えない人がいつも行なっているイメージのやわらかさを、見える人も同じように体験するんです。
で、実際にイメージが変わった!という体験は、=伊藤氏の言っている「腑に落ちた体験」になっていきます。
実際に体感して腑に落ちたら・・・どうですか?
考え方も大いに変わる気がしませんか?
伊藤氏の身体論にも通じていきますね。
固執したばっかりに身動き取れなくなって、厄介なことになった・・・なんて経験、誰にでもありますよね。
ぐにゃぐにゃなぐらい、優柔不断でいいのかもしれません。
見えない人は、イメージをかえることに全く抵抗がないというか・・・それが当たり前という・・・かえってそれが、ゆとりに繋がっていたりしますからね。
見えない人の柔軟性を身を持って体感して、コミュニケーション自体がアートになっていく、その醍醐味はまさしく「セッション!」ですね。
参加した人は、自分のイメージの脆弱性を嘆くのか・・・
はたまた、めまぐるしく変わるイメージで遊ぶのか・・・
新しい世界を体感できる、アートの可能性に期待します。
水戸芸術館で始まった、この視覚に障害のある人と館内を見て回るというワークショップ「セッション!」は、今では全国に広まっているそうです。
見えている人も見えてないんだ
さて、こんなに面白そうな「見える人と見えない人が一緒に展覧会を鑑賞するツアー」、すっかり参加したい気になってしまいました。
この活動を通じて、見えている人の体感が変わることの面白さは書きましたが、見えない人の考え方も変わったと言います。
ツアーのナビゲーターである全盲の白鳥健二さんは、「見る」ということについての考え方が変わったそうです。
『それまでは、見えているのはいいことで、見えていないのは良くない、見えている人の言うことは正しくて、見えていないことは正しくない、という印象が子どもの頃からずっとあった。
見えている人の言うことは絶対的な力があったんですよ。
見えている人は強くて、見えていない人は弱い、というような。
でも見えている人が湖と野原を間違うというような出来事があって、何か違うぞと思い始めたんですね。笑』
『見えていても分からないんだったら、見えなくてもそこまで引け目に思わなくてもいいんだな、見えている人がしゃべることを全部信じることもなく、こっちのチョイスで、あてにしたりしなかったりでいいのかな、と思い始めました。』
ある意味、見えている人も見えてないんだなと言うことですね。
それは、端的に見える側の人も、いつも思っていることです。
人は、見たいように見ますから、同じように見えていない場合は多々ありますよね。
まとめ
見えない人の数々のエピソードは、それだけでも十分興味深く面白いものでしたが、そこに、伊藤氏の美学的な意味付けが加わって、この本は、さらに面白いことになっています。
こんなに面白くなったのは、もしかしたら、著者にとっても、予想以上だったかもしれません。
それを面白くしてくれたのは、目の見えない人たちそのものです。
最近では、障害を持つ人たちが社会にとって「触媒」的な役割を担うという考え方も出てきました。
子ども、高齢者、障がい者など、マイノリティユーザーをデザインのプロセスに積極的に巻き込み、そこからの気づきを形にしていこうという、「インクルーシブデザイン」も、そのひとつです。
伊藤氏の、このスタイル・美学が、他の障害を持つ人たちにも置き換えられて・・・
伊藤氏の視点がもっと世に広まって、当たり前になっていったら・・・
障害者も健常者も関係なく、明らかにみんなが生きやすい社会になっていくでしょう。
実は、それは、誰もがわかっている・・・
なんだか、自明のことのように思えてきました。